バイオグラフィBiography

生い立ち

1940年代

私は、昭和十五年、横浜の本牧で六人兄弟の三男として生まれました。父は保険会社のサラリーマンでした。当時、一家は借家に住んでいて、以来、私は借家以外に住んだことはありません。(中略)昭和二十年、父の故郷の千葉県夷隅郡中野町に、母と、兄弟四人だけが疎開しました。(中略)疎開先の住いは、馬小屋を改造したもので、千葉には小学校五年までいました。 「特集 君たちはどう生きるか:菅野東工大教授と渡辺麻布土地社長の場合」『週刊新潮』新潮社, 1987年4月30日号, p. 142.

ゲームに夢中だった少年時代

1950年代

(小学校五年生の時)横浜に戻ってきてからは、東横線反町駅近くの2Kの市営アパートに家族六人が住みました。地元の小、中学校を卒業し、県立の横浜翠嵐高校に入りました。 「特集 君たちはどう生きるか:菅野東工大教授と渡辺麻布土地社長の場合」『週刊新潮』新潮社, 1987年4月30日号, p. 142.

(中学校時代について)
麻雀とポーカーばかりやっていました。学校に泊まり込んで麻雀をやって、朝、そのまま授業に出たこともあります。いまなら問題になるところですけど、当時はわりと自由な雰囲気で、宿直室で先生と麻雀をしたりしていました。 「記号ではなく、言葉の意味を処理するファジィコンピュータの可能性」『Trigger』新潮社, Vol.8, No.13, 1989年12月, p. 5.

(高校時代について)
物理と数学は得意というわけではなかったけれど、好きでしたね。非常にロジカルで、問題があると答えがきちんと出るところが気に入っていました。 「記号ではなく、言葉の意味を処理するファジィコンピュータの可能性」『Trigger』新潮社, Vol.8, No.13, 1989年12月, p. 5.

理系の勉強が好きで、物理学を学びたいと思い、東大の理学部を受け現役で合格しました。家が貧しかったため、私立は受験できず、東大しか受けませんでした。その入学金も親には出してもらえず、自分で金策をして後で返したほどです。 「特集 君たちはどう生きるか:菅野東工大教授と渡辺麻布土地社長の場合」『週刊新潮』新潮社, 1987年4月30日号, p. 142.

革命家に憧れた学生時代と挫折

1950年代

私は学生の頃に理系の学生の哲学系のサークルでカント、ヘーゲル、マルクスやエンゲルスなどの勉強をしていました。デカルト的哲学がまだ主流でした。そして大学を卒業してから、デカルト哲学一辺倒でいたことに反省するところがあって、パスカルに取り組む気分になりました。デカルトとパスカルのどこが違うかというと、デカルトが客観性を追求するのに対して、パスカルは主観性を重視するところです。 「ファジィよもやま話」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.26, No.4, 2014, pp. 155-159.

忙しくて、授業に出ている暇などありませんでしたよ。スポーツや趣味に費やす時間などありません。ましてや、女子学生とデートした経験など一度もありません。お茶を飲んだことさえなかったんです。当時の私はプロ革(プロフェッショナル革命家)になるのが夢だったんです。 「特集 君たちはどう生きるか:菅野東工大教授と渡辺麻布土地社長の場合」『週刊新潮』新潮社, 1987年4月30日号, pp. 142-143.

あのころはロジカルな世界というものを信じていて、どんなにあいまいなものでもとにかく考え抜けば、真理は見つけ出せると思っていました。その方法論が社会にも通用すると思っていて、科学的社会主義というか、歴史の必然として社会主義が達成されるという考えを信じていました。歴史にも物理と同じような法則性があると勘違いしていたんですね。いまは当時と考え方が180度変わっていて、物理や数学でさえも混沌とした、あいまいな世界と無縁ではないと思っていますが。 「記号ではなく、言葉の意味を処理するファジィコンピュータの可能性」『Trigger』新潮社, Vol.8, No.13, 1989年12月, p. 5.

(学生時代の思想とファジィとの関係について)
うーん。確かにマルキシズムは近代合理主義の権化みたいなもので、まさにファジィとは正反対......。逆にいえば、だからこそファジィ理論に興味を持ったということかな......。運動に挫折してマルキシズムに疑問を感じ、悩みに悩んだわけですから......。 菅野道夫「「ファジィ理論」とは何か」(田原総一郎『知の旗手』潮出版社, 1989年, p. 303.)

1960年代

大学時代の私の成績はものすごく悪くて、大学院にはとても行かれないので就職することに決めました。二十八人いたクラスの中で、就職したのは私ともう一人いたくらいのもので、それも卒業一ヶ月くらい前になってやっと三菱原子力工業に決まったのです。(中略)四月に入社して、埼玉県の与野市にある会社の寮に入りました。寮は個室の洋間で、六畳一間でしたが横浜の市営アパートより余程いい暮らしでしたよ 「特集 君たちはどう生きるか:菅野東工大教授と渡辺麻布土地社長の場合」『週刊新潮』新潮社, 1987年4月30日号, p. 143.

ファジィ理論との運命的出会い

1960年代

どうしてファジィの研究を始めるようになったか、かなり偶然のことなのですが、1968-69年頃のことなのですが、私は東京工業大学で助手をしており、学部卒でしたから、学位を持っていませんでした。学位がないと将来給料が貰えなくなるだろうからと、なんとか学位を取ろうと思っていました。研究テーマを探しによく図書館へ行き、いろいろなジャーナル論文を読んでいましたが、たまたまその時に1965年のInformation and Control誌で、Fuzzy SetsというZadeh先生の論文が目に留まりました。それをみて、非常に惹かれるところがあり、調べるきっかけができました。 「ファジィよもやま話」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.26, No.4, 2014, pp. 155-159.

1968年頃、Zadehの論文 “Fuzzy Sets” を図書館で偶然に発見し、主観的集合概念に大きな共感を覚えた。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

ザデー先生が書いた2つの論文を一度に読んだのですが、非常に印象深かったですね。まず、1つは確率ではなく、人間が持っている主観性を数学的に表そうという考え方。そしてもう1つは、コンピュータです。ファジィ的なアルゴリズムが導入されれば、コンピュータは飛躍的に進歩するだろうということが書いてあったんです。これはいまでいうファジィ・コンピュータのことですよね。 「記号ではなく、言葉の意味を処理するファジィコンピュータの可能性」『Trigger』新潮社, Vol.8, No.13, 1989年12月, p. 6.

ザデー教授の論文に初めて目を通したとき、論文中に『ファジィコンピュータ』という概念はなかったにも関わらず、私は論文に『ファジィコンピュータ』という書き込みをしている。ファジィ理論に触れて衝撃を受けた瞬間に、私としては『ファジィコンピュータ』の実現を構想していたともいえる。 「ファジィ理論の応用と21世紀のファジィコンピュータ」『The A』OMRON, Vol.9, 1990, p.31.

ファジィ測度・積分の研究と、Mamdaniとの出会い

1970年代

1973年の(中略)IFACのデルフトにおけるシンポジュームで(ファジィ理論のセッションが)企画され、その時私は初めてファジィ積分概念を海外で発表した。 「マムダニ教授と過ごした日々」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.22, No.4, 2010, p.95.

1975年に国際会議でMamdaniのファジィ制御の発表を聞き、非常に感銘を受けた。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

1975年夏にボストンで開催された第6回IFAC(国際自動制御連盟)世界大会において、初めてロンドン大学・Queen Mary College (QMC)のEbrahim Mamdaniに出会った。カナダのグプタが第2回ファジィ論理のセッションを企画し、ザデー、寺野、マムダニ、菅野等が招待され研究発表をした。

幸運にもマムダニの招待で、その年の12月末から翌1976年の8月末まで、QMCの電気電子工学科で過ごすことができた。(中略)QMCの後、1976年9月からフランス、ツールーズの自動制御の研究所に滞在する機会を得て、1977年3月に帰国した。 「マムダニ教授と過ごした日々」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.22, No.4, 2010, pp.95-96.

(1975年)当時、私は東京工業大学制御工学科の助手をしており、制御は専門ではないと(は)言え、それなりの知識は備えていた。ザデーの複雑なシステムへの言語的アプローチに関する1973年の論文を熟読していたのだが、しかし、制御への応用を思いつくことは出来なかった。(中略)当時は状態変数概念を導入した動的モデルに基づく最短時間制御など最適制御が盛んになった頃で、数式モデルによらないファジィ制御は安易に見えた。すなわち、私自身その革命的意味を理解していなかったと言える。 「マムダニ教授と過ごした日々」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.22, No.4, 2010, p.95.

ファジィ理論からその応用へ

1970年代

(1975-76年のQMC滞在の後)フランスの自動制御の研究所で1年過ごして帰国し、“ファジィ”を広めようとの思いに駆られ(当時“ファジィ”は大きな批判に晒されていた)、ファジィ測度を封印し、ファジィ制御の研究を始めた。目標はシステムのファジィモデリングとファジィシステムの安定性解析であった。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

ぼくはファジィ理論がさまざまな分野で非常に有効だと言うことをずっと信じていて、なんとか世の中に広めたいと思っていました。それには実際に役に立つことを見せるのがいちばんだと思い、ファジィ制御をやろうと考えたわけです。 「記号ではなく、言葉の意味を処理するファジィコンピュータの可能性」『Trigger』新潮社, Vol.8, No.13, 1989年12月, p. 6.

さて、ファジィ理論はヨーロッパでも盛んになりつつあることを実感し、日本でも普及に努めようと決心した。一番よい方法はファジィ論理の応用を示すことだと考え、それまでのファジィ測度・積分の研究を止め、マムダニの話を聞きながら専門家になったつもりのファジィ制御に転向しようと決心した。そして第1にしたことは、高木君にファジィモデリングのテーマを与えたことである。理由は、ファジィ制御が従来制御に対抗するためには理論モデルが欠如しているとの思いからであった。ファジィ関係方程式程度のモデルでは動的モデルに基づく制御は覚束ない。高木の研究は後にTSモデルとして見事に結実した。第2は計測自動制御学会誌にファジィ制御の解説を寄稿したことである。後に安信教授から日立の研究所にいた時、その解説を読んで地下鉄の制御にファジィ制御を応用する気になったと伺い、大変感激した。第3は自分でも応用を始めようと考え、模型自動車を使ってファジィ制御の有効性を示すための研究を始めたことである。 「マムダニ教授と過ごした日々」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.22, No.4, 2010, p.96.

言語への強い関心が芽生えたのは、ファジィ理論の研究を始めて10年程経った70年代後半のことであった。 「言語と脳の内なる邂逅」『RIKEN BSI NEWS』 理化学研究所脳科学総合研究センター, No.13, 2001年8月

1980年代

これまで、私の研究室ではファジィ理論の実験例として、ファジィカー、ファジィヘリコプターの開発を行ってきた。ファジィカーは、簡単な言葉によって、実験車に一連の動作をさせるというもの。「右 or 左へ曲がれ、真直ぐ走れ、車庫に入れ」といったマクロな命令で、実験車に意図した動作をさせるという実験で成功を収めている。 「ファジィ理論の応用と21世紀のファジィコンピュータ」『The A』OMRON, Vol.9, 1990, p.30.

1987年の第2回IFSA(東京)に於いてファジィ・カーの実演に成功し、その後もっとも制御が難しいと言われるヘリコプターに取り組み、ファジィ制御による無人ヘリコプターを10年かけて開発した。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

ファジィ理論を研究している内に、ヴィトゲンシュタインの哲学を知り、深く傾倒するようになった。 「ハリデー先生の思い出」『機能言語学研究』日本機能言語学会, Vol.10, 2019年9月, pp.13-20.

この頃、私は言語学については無知であったが、少なくともチョムスキーとは異なる、ウィトゲンシュタインの謂いに適う言語学が必ずあるはずだと思うようになった。そして、偶然、80年代後半にハリデーの言語理論に巡り合うことができた。 「言語と脳の内なる邂逅」『RIKEN BSI NEWS』 理化学研究所脳科学総合研究センター, No.13, 2001年8月

世界初の音声操縦無人ヘリコプター開発成功

1990年代

私の研究室では数年前から、科学技術庁及び通産省の援助を受け、地上からの音声誘導により飛行する、知的無人ヘリコプタの開発研究を行っている。(中略)地上からの離陸、上昇、前進、旋回などの言語コマンドで自在に飛行するヘリコプタとしては世界唯一のものである。ヘリコプタの前は模型自動車をやはり音声誘導する研究を行った。その目的はファジィ制御の有効性を実証するというものであり、一応の成功を収めた。その後、さらに難しい対象ということで、3次元の不安定移動物体であるヘリコプタのファジィ制御を手がけることにした。 「知的無人ヘリコプタ」『蔵前工業会誌 Kuramae Journal』東京工業大学同窓会, No.909, 1995年11月, p.16.

ファジィヘリコプターに関しては、対象としては、ファジィカーより、はるかに難しい。空中での姿勢制御にしろ不安定で、車よりスピードも段違いに速い、それゆえ、より短い時間で有効な行動をとらせねばならない。(中略)ヘリコプターの方が自動車より操縦が難しいわけで、また難しいからこそファジィを使った自動化に意味があるといえる。人間のマクロな命令だけで、ファジィヘリコプターのターゲットは、ヘリコプターという複雑な飛行システムを運行しようということにある。 「ファジィ理論の応用と21世紀のファジィコンピュータ」『The A』OMRON, Vol.9, 1990, p.30.

言語学への関心

1990年代

20世紀の終りに至り、関心は単なる言葉から、ヒトの知の体系としての言語システムそのものに移り、数値によるコンピューティングを超えて、言語によるコンピューティングの研究を進めたいと思うようになった。 「ファジィと東工大の邂逅」『東京工大クロニクル』東京工業大学, No.342, 2000年3月, p.9.

1991年のある日、講読していた月刊誌「言語」で、偶然に山口登のSFLの解説論文を目にし、これこそ自分が求めていた言語理論だと直感した。 「ハリデー先生の思い出」『機能言語学研究』日本機能言語学会, Vol.10, 2019年9月, pp.13-20.

1992年にはICUに滞在中のハリデー先生がセミナーを開くことを知り、毎週ハリデー先生のセミナーに参加した。しかし、ハリデー先生の話は一言も理解できなかった。 「ハリデー先生の思い出」『機能言語学研究』日本機能言語学会, Vol.10, 2019年9月, pp.13-20.

1990年頃にシステムの言語モデルに関心を持つようになった。しかし、すぐに言語学の知識なしに問題を解決できないことに気付き、Hallidayが1960年代に創始した選択体系言語学の勉強を始めた。10年の歳月を経て、ようやくHallidayに言語学について質問が出来るまでになったが、時すでに遅しの感があった。1968年頃にもしこの言語学に出会っていたら、言語学を目指していたかもしれない。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

日常言語コンピューティングへの取り組み

2000年代

ファジィコンピューティングはLIFE時代に言葉による制御という形で実現されたが、この成功を契機に更に一般化した知的コンピューティングを経て、LIFE後の「日常言語コンピューティング」の発想につながって来た。日常言語コンピューティングとは普通の言葉ですべてのコンピューティングを実行・管理するというパラダイムである。選択体系機能言語学の創始者ハリデーは「意味のコンピューティング」と表現するが、この謂いには深く感銘を受けた。つまり、言葉で動かすというのは実は意味で動かすと言うことなのである。 「LIFEの残したもの-10年を経て振り返る-」『第21回ファジィシステムシンポジウム講演論文集』, 2005年9月, p.287.

結局、ハリデー先生と言語についての話ができるようになるまでに10年かかった。そして、ハリデー言語学を基に、東工大を退職後、理化学研究所脳科学総合研究センターで「日常言語コンピューティング」というプロジェクト研究を5年間実施する機会を得た。 「ハリデー先生の思い出」『機能言語学研究』日本機能言語学会, Vol.10, 2019年9月, pp.13-20.

理研でどのような研究をしたかというと、それは言語システムをコンピュータに実装し、動くようにする研究である。このために言語システムをセミオティック・ベースとして表現することにした。 「ハリデー先生の思い出」『機能言語学研究』日本機能言語学会, Vol.10, 2019年9月, pp.13-20.

理化学研究所脳科学総合研究センターでは5年間、「脳型コンピューティング」(ヒトの脳は言語に基づくコンピューティングを行っている)という形で日常言語コンピューティングの研究を行う機会を得て、2004年にデモシステムを構築するまでに至った。顧みれば、この研究もLIFE時代のファジィコンピューティング、無人ヘリコプターの音声制御の研究が発端となっている。 「LIFEの残したもの-10年を経て振り返る-」『第21回ファジィシステムシンポジウム講演論文集』, 2005年9月, p.288.

理研でのプロジェクトを通じ、私は言語システムを原理的にコンピュータ上に実装することが可能であると確信した。次のステップは、言語システムを神経回路上に実装することである。そうすれば言語システムはその故郷に回帰し、本来の機能を発揮するに違いない。 「ハリデー先生の思い出」『機能言語学研究』日本機能言語学会, Vol.10, 2019年9月, pp.13-20.

博論テーマへ回帰した晩年

2000年代

2005年に同志社大学へ移り、ファジィ測度を用いる選好モデルの研究を始めた。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

実数上の選好モデルについてはAllaisとEllsbergの反例が知られていて、これらは後年ショケ積分モデルを用いることによって解決された。2002年にノーベル経済学賞を受賞したKahnemanのプロスペクト理論は、正と負の領域で異なる歪み確率測度(ファジィ測度のクラス)によるショケ積分を用いるものである。Grabischは同じ2002年にKahnemanのモデルへの反例を示し、双容量を用いるショケ積分モデルで解決した。更に2006年には自らのモデルの反例を示した。そこで、この反例を解決しようと努力した結果、2011年に階層型ショケ積分モデルを提起することが出来た。暫くして、階層型モデルに対する反例はもう現れないと確信し、選好モデルの研究を中止した。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

2010年代

2010年からスペインのソフト・コンピューティング・センターで働き始めた。Halliday言語学の応用と東工大退職前から始めていた区分的双線形モデルに基づく非線形制御の研究を続ける傍ら、興味は再びファジィ測度に戻った。そして、ショケ積分の逆演算としての微分を定義できないかと考えるようになった。しかし、微分は本質的に連続的な概念であるため、連続なショケ積分の計算が不可欠になる。一般的ファジィ測度を用いては不可能と思われたので、歪みルベーグ測度に限定し、2013年に非負の単調関数に関するショケ積分の計算法を見出した。そして、ショケ積分の逆演算としての単調増加関数のラドン・ニコディム的微分を定義することができた。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

2013年にIEEEのサイバネティクスの国際会議において、“Why Can We Think?” というタイトルで、ハリデー先生による幼児の言語発達のご研究を基に、講演する機会を得た。 「ハリデー先生の思い出」『機能言語学研究』日本機能言語学会, Vol.10, 2019年9月, pp.13-20.

2015年には条件付き歪みルベーグ測度にたどり着いた。完成には程遠いが、気が付けば1974年の(博士論文の)失敗以来、実に40年経過していた。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

こうして線形微積分学を超える非線形ショケ微積分学を提唱するに至っている。しかし目の前には、未だ高い壁が立ちはだかっている。 「ファジィ理論との邂逅とショケ微積分学への道」『知能と情報』(日本知能情報ファジィ学会誌), Vol.29, No.3, 2017, p.83.

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